途中聞き取難い末尾切れ

昭和43年05月31日 朝の御理解



 「真心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ」と。信心の心得の中に御座います。ここで、しんじんとは、「真心」と書いてある。しんじんの道を「真心の道」と書いてある。「真心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ」と。お道の信心を頂いて、まあそれぞれに、まあ大なり小なり有難い信心であると。どうでもこの有難い信心を、子供にもそして孫にも伝えて行きたいと。
 まあお道の信心を頂いておかげを受けて行っておれば、誰しも一度はそう思うのである。それでそれを子供にも言わば教え伝え様とするので御座いますけれども。どっこい子供がする気がない所謂一代の時に終わってしまう。お爺さんの時にはお父さんの時には、あの様に熱心に信心を頂いておられたのに、まあ子供の代になったら影もなくなった。孫の時代になったらもう跡もなくなったと言う様な例が沢山御座います。
 どうしてこの様な有難い真心の道の信心がですね、失われて行くのであろうか。どうして末の末までも教え伝えられて行けんのであろうか。御理解にこう御座います。御理解第67節「何事もくぎづけではない。信心を銘々にしておらねば長う続かぬ」とこうあります。長う続かぬ理由がここに書いてある訳ですね。御理解しておられます。御理解67節にね、「何事もくぎづけではない。
 信心を銘々にしておらねば長う続かぬ」末の末までも教え伝えたい。もう長う伝えたいと思うても、信心が長う続かんのは、信心を銘々にしていないから。はっきりそう言う風に御理解下さってありますね。そこでその何事も釘付けではない。信心は銘々にしておらねばと言う、この銘々にしておらねばと言う所が問題なのです。銘々勝手と言う意味じゃない。我が儘勝手と言う意味じゃない。
 まあ言うなら、教えに基いての生き方なのです。それが所謂銘々でなからなければならん。ここんところをね、銘々と言うかその、銘々勝手と言う風な、あの勝手を自分で勝手に付けてしまう、それではない訳ですから。教祖の神様が嘘を仰る筈はないのです。教祖の神様に、天地の親神様が嘘を仰っておられる筈もないのです。「此方がおかげを受けてきた事を話にして残しておく」と仰る。
 だから先ず、ここんところをね、お互いが信じて疑わずに、どうでも、この有難い信心を、先ず自分銘々がね、有難うならにゃいけん。仕方のないものを子供に残してやったってどうするか。自分が本当に信じもきれないものを、子供に孫に押し付けたって、何の頂く筈がないじゃないか。 先ず自分が、神様を信ずる力と言うか、神様を信じきっての生活と言う物は、こんなに有難いものである、と言うその有難いと言う物をです、銘々が頂かなければまず。その有難い勿体ない。
 例えば、食べ物でもそうでしょう。自分が食べてみて、美味しかったかればこそ、「美味しいですよ、一つ召し上がって御覧なさい」と云う事になるのである。自分がよう味も知らずに、自分が美味しいやら美味しくもないやら分からん物を、さあ子供に食べろと言うたって、神様が、子供が食べる筈がない。それを美味しゅう頂いておる、言うなら舌づつみをうって、食べておる姿を見るならばです。
 子供でもですね、孫でもですね、周囲の者でもです、「はあ、あれはおいしかろうごたるな、一つ頂きたいな」と言う事に成って来るんです。信心もそうなんだ。信心は難しいもの。信心は苦しいもの。そう言うような、例えば、言う程度にしか、信心を頂いてないとするなら、是は長う続かんのが当たり前。だから信心を先ず、いわゆる真心、ここでは信心とは「真心」と書いてある。
 「真心の道」と書いて、「真心の道」を本気で稽古さして貰い体得さして貰うて、先ず私自身がおかげを受け、私自身がまず有難くなる。しかも、この様な場合でも、それはまあどんな場合でも、この様に有難く、しかも楽であるということ。それは、口水が足る様に、美味しい美味しいと言って食べ物、食べておる様に、信心ちゃ有難いもんじゃな。もし是が普通ならどうであろう。
 こういうような難儀に直面しておる時に、もし信心がなかったらどうであろう。信心を頂いておるおかげで、そこをこの様な元気な心で、この様な有り難い心で受けて行かれると言う事が、もうなんと有り難いことであろうか、と言うものをです、自分が頂かなければ、子供が「一つ下さい」と言わんはずがない。子供が付いてこないはずがない。寒い冬がやって来る。
 何時の間にかそれが春となると暖こう成って来る。だんだんちょうどいい時期だと言うておると、今度は段々暑うなって来るそれこそ炎天に焼く様な、真夏がやって来る訳である。暑い暑いも束の間今度は秋風が吹いて来る様になる。涼しゅうなって来るのである。それからまた冬がやって来る。天地自然のそれが働きなのです。言うならば神様の働きなのです。そういう暑い寒いという神様の働きをです。
 「はあ暑い暑い、もう夏は嫌だ」と。そこにはもう有難いものはないのです「はあもう寒うして寒うして早う春が来にゃ」と言うならば春の来る間は地獄である。ね。教祖の神様はね、そういういわば暑い寒いの中をどの様な生きられ方をなさったか。夏もなからなければ冬もない春もない秋もない何時もが同じ有難いで過ごされた。いわば自然に順応でおありになった。自然の働きに対して逆らうと言う事をなさらなかった。
 逆らう事だけではなくて、それに応えておいでられた。そこに教祖の生きられ方、教祖のご信心の素晴らしさと言うか、いわゆるいかにも平凡である様であって、平凡でない信心がそこから生まれた。そういう教祖の神様の受けられ方を私共の生き方の上に、神習わせて頂くと言うのがお道の信心なのである。そこでいわゆる神様のお働きに対して、私共が有難い勿体ないでそれを素直に。
 いわゆる順応の「順」は「順」素直と言う意味で頂いて貰いたい「応」は「応じる」それに応えると言う意味ね。自然の働きに順応であると言う事。それはそのまま、神様のお働きを素直に受けるということと同時に、「素直に受けて応える」と言う事である。その「素直に受けて応える」と言う事は、ならどの様な事であろうか。寒い時にはもう一枚、もう一枚と、例えば、あわせを綿入れを着込んで行くでしょう
 。又は暖をとるでしょう。ストーブを使う火を入れるでしょう。それなんですそこには、寒い寒いを言わんで済むおかげが受けられるのである。いや冬も又有難いと言う事になって来るのである。実に素直な生き方なのである。春がやって来る一枚一枚着物をはいで行ったらいいのである丁度いい。夏がやって来る。いうならばシャツ一枚になるがいい、薄物に着替えるがいい。そして窓を開け放つがいい。
 そこにはまた、夏でなからなければ味わえない、夏の楽しみがそこにある。秋がやって来る。そして又寒い冬がと言う様にですその時その時の神様の御働きというものを、大事に有難くしかも素直に受けて行く。そしてそれに応えて行く冬には冬の仕事がある。夏には夏のまた仕事がある御用がある。そういう受け方と言うか頂き方と言うか。私はね信心は銘々にしておらなければと言うのはねその様な事だとこう思う。
 だからこそ長う続くのである。だからこそ年々歳々に冬がやって来ても夏がやって来てもそこをやって行ける。冬に綿入れを着とったからその綿入れをやっぱり、春でも夏でも着通さなきゃならんと言った様な難しい事はないでしょうが。それを信心さして頂く者は、何か変にその辺の所をですね「信心さして頂く者はこうでなからなければならない」「信心はこうだ」自分が冬におる時に夏の所を通っておる人に冬の事を言う。
 「はあ信心は難しか」と言うて出来んのである信心は銘々なのである。あの暑いのに涼しい顔をして過ごしておる。この寒いのに温かそうな顔をしておる。それを見たり聞いたりするものがですそういう生き方があるならば、その生き方を神習わせて貰わなければ居られん程にです私共が何時もが有難いと言う、おかげを頂かなければいけない、ところがさあそこに問題がある。
 皆さんあの歯が痛む時に神経を取られた体験があるでしょう。もう夜通しうずいてしようがない。歯医者へ行って神経を取って貰うと、もう嘘の様に楽になるでしょう。信心はね、その神経を取らないといけんのです。もう暑いも感じん寒いも感じん。いわゆる、神経と言う事はね、人間心を取らなければならんと言う事。人間心があるから、義理人情の板挟みと言った様な難儀な事になって来るのである。
 信心には義理もなければ人情もない。あるものは只神情のみである。それが神経を取った人の姿であり、心の状態である。義理人情じゃ助からんのである。人間心じゃまた助かりないのである。義理が板挟み。人情それに流される。是ではね、人間何時まで経っても有難いというものは生まれて来ない。自然の働き、いわゆる天地自然の働き。いわば天地の親神様の御働き。
 その御働きの中には、雨もあれば嵐もある。痛い思いもする事もありゃ、悲しい思いをする事もある。けれども信心さして頂いておると、痛いけれども、悲しい事だけれども、腹の立つ事だけれども、けれども有難いのである。「神様、痛う御座います」けれども有難いのである。夏を冬にする事は出来ません。夏はやっぱり夏であり、冬はやっぱり冬である。そうでしょうがね。
 どんなに原始時代を追ってまいりましてもね、夏を冬にすると言った様な事は、是はもう何時の時代になっても出来やしません。冬を夏にする事も出来ません。けれども暑いけれども、暑いけれども有難い。寒いけれども有難い。そこに自然に対する所の心構えと言うか、所謂ここで言うと信心の心得なのである。真の道、真の信心の心得としてです、自然に素直になる。自然の働きに素直になり、素直に受けて行く。
 受けて応えて行く。そこに私は末の末までも教え伝えられれるおかげが、そこにあると思う。是はね、もう教え伝えなくても、末の末までも続けて行けれる生き方なのだ。そういう信心なんだ。言わば信心が長う続くと言う事。何事も釘付けではない。信心を銘々にしておらねば長う続かん。銘々にしておらなければ、冬を通ってる人は冬の生き方がある。夏を通っておる人の上には、夏の生き方がある。
 しかもその夏や冬が、暑いけれども有難い、と言う暑くなからなければ味わえない、その味わいと言うものを味わいながらの生き方である。そういう生き方がね、お互いの日常生活の中に、少しずつこうできてきてごらんなさいよ、楽しい事になる。いわゆる、信心は楽しい。信心をいうなら、エンジョイしていけれるわけなんです。そういう生き方を皆が体得しようとせずに。
 ただ神様と言や、お願いするばっかり「暑う御座います暑う御座います。どうぞ涼しゅうなります様に」「寒う御座いますから、どうぞ暖かにして下さい」是をいかにばたばたして願った所で、ほんとのおかげになる筈はないですよね。暑いなら少し着物一枚はがしたらええが。窓を開けたらいいが。寒いならもう一枚着物着たらいいが。その教えて下さるその事には取り組まずに。
 只暑う御座います寒う御座います、と言うておったんではですもしそれがんなら、金光大神のお徳によっておかげを受けたにしてもです。それを子供やら孫やらが「はあ信心ちゃ素晴らしいもんだな有難いもんだな」て思わん。そこに私は教えを頂かなければならない、本気で教えを行じなければならない。自分の思い方が御教えによってちょっと変えられた。頭が割れる様に痛いもう触っただけでも痛い。
 総代さんの久富さんがここ2日間あまり頭が割れる様に痛い。髪の毛はもうちょっとでも触られん。所が夕べは綺麗に何時もの様に丸坊主ですから、丸坊主なって来たはぁおかげ頂いたばいなと。もう今日はおかげ頂いちゃるとですから、もうおかげ頂きました。もうちょっとでも触られん位に痛い。けれどもその考えたんですね。是がね普通何でもない時には、頭を撫でたっちゃさすったっちゃどうもない。
 痛うも痒うもなか。そういう時のお礼が足りないと言う事をひとつ分からして貰った。それから、もしこれが死んでしもとったら、痛うも痒うもなかろうと思うた。死んどったら確かに痛うも痒うもない訳です。いわゆる日頃の御教えが甦って来た訳なんです。はあ、触られんごと痛いのも、こら神様のご都合だと思うた。神様のご都合だから。同時にほんとに是は生きておる印であると分かった。
 ところがその触られん触られん程に痛かったり、頭が割れる様にあったのがです、それが一遍に治る訳じゃないけれども痛いけれども有難い。生きておる印であるとしてお礼が申し上げれる様になった。目が覚めた時にはもうおかげで触ってもおかげを頂いておるから、まあ散髪をして来たとこういうのである。痛いけれども思い方がちょっと変わったら、もうそこには暑いけれども暑くないものがそこにあるでしょうが。
 信心と言うものは教えを頂いて行く。暑いけれどもしかも次には霊験がある。ここんところを分からせて頂いたら、一眠りさせて頂いて目が覚めた時にはもうすでに、その痛さがなかった頭の割れる様な苦しみもなかった。消えておった( ? )霊験はお道の信心の看板だと。だからと言うても霊験霊験だけじゃいかん。そこに分からして頂くそういった信心が、いわゆる信心がそこに甦って来る。
 信心で物言う。そこに生まれて来るのが霊験である。そこに暑いけれども有難いというものがある。痛いけれども有難いというものがここにある。そこを分からして貰って、それをまあいうならば、もっというなら生きておる印である。そういう信心をお互いが身に付けて行かなきゃならん。それにあの自分の周囲の者がその信心に付いて来ない筈がない。伝えようと、伝えようと思わんでも伝わるのである。
 それを信心(真心)の道を子供が二代。二代が継がん。三代になったら愈々信心がなくなる。どうしたならばその信心の継承と言う事が、最近しきりに言われる、どうしたらこの信心がそのどうしてこの信心を、どうしてと言うておるその信心が有り難いものになっていないから。同時に神様の御働きに対する所の素直さがないから。それを受けて応えるという、それに受けて立たしてもらう元気な心がないからです。
 そういう信心が身に付いて行くならば、是は末の末までも教え伝えられるのであるそれならばです、成程信心は銘々のもの子供は子供親は親。夏を通っておる者も冬を通っておる者も、そこには夏の信心があり冬の信心がある。それを夏を通っておる者が夏でなからなければならん様に、夏に綿入れ着れと言うたって誰が着る筈がない。そういうところにですね、信心の継承の難しさと言うのがあるのではなかろうか。
 だから、継承というものは難しいものではない、素直に素直に受けて行く。先の御理解の中にも含まれておりますけれども「信心は家庭に不和がなきがもと」と仰るのは、ただ家庭の中が円満であると言うそれだけじゃない、金光様の信心で言う所の家庭の円満と言うものは。金光様のご信心をさして頂く者の、家庭に不和の無いが元と仰るのは、家庭中の者が「信心ちゃまあ有難い事だ」と言う事が言うならば。
 親子が夫婦が兄弟が「信心ちゃ有難いね」ほんとに、是だけの広大なるおかげを頂いておって、どこ押しゃ不平が言えるか不足が言えるかと。そういう話を続けれる様な雰囲気が、信心さして頂く者の、不和のない、と言うのはそういう事なんだ。腹を立てて堪えよう。何か(?)ものとは違う。だからこそここにおかげの元、家庭に不和のなきがもと、おかげを頂くのも家庭に不和の無いのが元。
 家族中の者がです、いうなら有難い信心の共励の出来る様な雰囲気。ほんとに有難いのが、信心は寝物語の(?)信心てり難い事であるね。有難いもんであるね。なんと有難いおかげを受けたもんじゃあるね。これがです、夫婦が仲良うするというのも、そういう意味合いにおいてのおかげなんです。( ? )その有難いね有難いねなくして、その有難いが伝わって行かなきゃならんのだ。
 そういう有難い有難いと言えれる、おかげを頂くに致しましても、例えばそれなら( ? )天地自然の(?)甘木の初代が私は操り人形と言われました。神様の人形と神様の操り人形である。と言うほどに神様に対して自然に対して素直でもあります。手を挙げれと仰れば「はい」足を上げれと仰れば「はい」いわゆる操り人形になられた所に、安武松太郎先生の信心がある。天地神命にかけて是が。
 神様のお働きを素直に受けて応えておられる。何年経っても、何年経っても、払えなかった借金、四神様の幽明からのお声によって、お言葉によって、安武松次郎に「こういうお徳を授けるぞ」と言うお知らせを受けられて、その受けられた所から、「よし、神様が下さるならそれを受けよう」とそれに応える。今までの信心じゃ受けられん。そこで夫婦で、家内とその夫婦によって受けて来られた。
 何十年経っても払えなかった借金が、1年掛って払えてしもうた。しかもそれは、払えただけではない。それが、肉になり力になって、払えたと言う所にね、石橋先生の信心がある。受けて立たれた。安武先生の、いうなら、自然に対する素直さ。神様の人形と。私は人形。もう右向けと仰れば右、左向けと仰れば左。そういう素直さに、信心が(?)と言う事を、いうなら( ? )そう言う様なものが。
 私どもの信心に(?)では( ? )自分のものに、この様に有難いと言う体験すらない。それには信心の、銘々のもの釘付けではない。そういう信心をしておらなければ長う続かぬと仰る。長う続く程のおかげ。末の末までも伝えて行けれる程の。時代ごと消えるに、終わらんにしてもおかげを頂く為にも、ただ暑う御座いますから寒う御座いますからだけを言うておる信心では、暑いけれども有難いと言う所も分からして頂く。
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